敦 煌 Slide show
 中国西域シルクロード玄関口のオアシス都市である。西方からもたらされる文化は当地を経由して中国各地へと伝えられた。ゴビ砂漠(ゴビ砂漠は砂利の砂漠なので中国ではゴビ灘(たん)と呼んでいる。ゴビとはジャリのことで灘とは広いの意味である)の中にある農業都市で、面積3万Ku(九州と同じ位)、人口約18万人、年間降雨量40mm、7月は最高40℃、1月は最低ー20℃になる。点在するオアシスで綿花、トウモロコシ、小麦、コーリャン、西瓜、葡萄などを生産している。紀元前111年の西漢時代に敦煌都として設立され、古来よりシルクロードの中心地であった。市街から数十キロ以上離れた砂漠の中に世界遺産・莫高窟をはじめ、シルクロードの要所、陽関と玉門関など多数の歴史的遺産が残っている。しかし、それらは廃墟に近い物も多く、今世紀中に敦煌も楼蘭と同様、全てがゴビ灘の中に埋もれてしまうとも言われている。市内観光 莫高窟 愉林窟 鳴沙山 西千佛洞 漢代長城 玉門関 河倉城 陽関 07.8.4
 
 市内観光 ゴビ灘のオアシスにある敦煌市の繁華街は極めて狭く徒歩30分程で全て見物できる広さしかない。しかし、西安の様な雑踏や都会的喧騒感の無い落ち着いた町であった。
 夜間に「空港到着」しタラップを降りる。
「敦煌のネオン」に歓迎され徒歩でゲートに向かう。
 朝食後「ホテル」から散歩に出かける。西安と異なり空気が綺麗である。

 ホテルから徒歩5分の所に立派「博物館」があった。
 建物は大きいが目を引くような「展示品」は無かった。
「歩道」は綺麗に清掃されていた。水は思ったより豊富なのかも知れない。

 町の中央に「飛天(天女)の像」が立っていた。後ろにある建物以上の高層ビルは建っていない。

「道路」も喧騒感が無く落ち着いている。
 市場を眺めて回る。路上にラクダの「土産品」が並んでいた。
「露店の食堂」で住民が食事をしていた。
「市場」には砂漠地帯とは思えない程の豊富な食材が並んでいる。
 親子で買い物に来ていた。食べ物が豊富なので「みんな体格が良い」。

「豚らしき肉」を解体しながら販売していた。
 大きな「生きた鯉」も売っていた。近くに沼か池があるようだ。
 夕食は「敦煌田舎料理」だが、内容はいつもの中華料理と大差無かった。
 
 莫高窟(ばっこうくつ)は東南へ25Km(車30分)にあり、鳴沙山東側南北1600メートルの断崖に掘られた700を超える石窟からなっている。中国最古の石窟寺院は4世紀中から14世紀の元朝末まで1000年に渡り石窟が掘られ栄え続けた。建築、壁画、塑像(そぞう)、文書など世界に例を見ない規模の仏教美術の宝庫で世界文化遺産に指定されている。
 ゴビ灘の広がる道路沿いにラクダが好む「ラクダ草」が生えている。遠くに電柱と電話線が長く続いていた。

 入口周辺にある「大泉河」は完全に干上がっていた。
 大泉河に架かる橋を渡って入口に向かう。
 橋を渡ると「莫高窟」「石室宝蔵」と書かれた二階造りの楼門がある。
 境内には中国人観光客が大勢いた。最近は日本人観光客が少ないそうだ。

「莫高窟の門」を通ると、その先は写真撮影禁止である。
 岩壁に無数の洞穴が掘られその中に「塑像(そぞう)」(粘土像)、「壁画」などの遺跡がある。内部は数人が入れる位の広さしかない。
 女性の説明員さんに案内され「石窟寺」の中を拝観して廻る。
 有名な「北大仏殿」の前で記念撮影。この中に高さ35.5mの巨大な北大仏(唐代)が安置されている。
 
 楡林窟(ゆりんくつ)は東へ180Km離れた楡林河峡谷の両岸にあり、唐代(618)から清代(1912)までの仏教壁画が石窟に大規模に描かれている。
「砂漠」の中を道路が延々と続いていた。
 到着して「石標」を挟んで記念撮影する。

 遺跡はこの「峡谷」を下った所にある。
 岩壁に「洞穴」が並んでいた。
「案内板」の前でツアーメンバーの集合写真を撮る。我々以外に観光客の姿は無く閑散としていた。
 声の綺麗な可愛い「史跡説明員さん」に案内され壁画を見学する。説明員さんは人里離れた当所に勤務し、月に一度ここから80キロ離れた安西県(あんせいけん)の自宅に戻るのだそうだ。
 
 鳴沙山(めいさざん)は南へ6Kmと街の直ぐ側にあり、風が吹くと砂が音をたてるので「鳴沙山」と呼ばれる。この辺りはきめ細かな砂の砂丘地帯で、長さ40km、幅は20km、高さは250mある。日中は砂が熱く食後直ぐや体力に自信の無い人は登らない方が良い。
 ホテルから乗車5分で「入口」に到着する。
 靴の上から「砂避けの袋」を履きラクダに乗る。
 ラクダに乗って砂漠を進み、古(いにしえ)の「シルクロード隊商の体験」をする。

 鳴沙山を登る。梯子の付いた登山道を途中(10分)まで登れば、「木箱の砂ぞり」で滑って降りられる。だが意外に難しく転倒しそうになった。

「頂上を目指して」は更に10分かけて登る。最上部付近は階段がなく、滑り落ちない様に這いつくばって登るので、スリル満点であった。
 頂上からは「砂嶺晴鳴(さりょうせいめい)」と言われる、幻想的な砂丘の姿が望める。
 麓に「月牙泉」のオアシスが見えた。
 砂まみれになったが「無事下山」しラクダの背から降りる。
 石標の上で「記念撮影」する。
 
 西千佛洞(にしせんぶつどう)は西へ30Kmの党河の岸壁に開削された石窟で、莫高窟の西に位置することから西千仏洞と呼ばれる。北魏、唐時代の莫高窟と同系列様式の壁画が残っている。
 途中に映画「敦煌」のロケで使用した、城壁のレプリカが建っていた。

 地平線の彼方に「蜃気楼」が浮かんでいた。
 蜃気楼をバックに「記念撮影」する。
 砂漠地帯を地平線に向かって30分程走ると「オアシス」に着く。そこの階段を下ると石窟がある。
 通路沿いの壁の上に「洞穴」が並んでいた。
 この様なドアが沢山並んでいて、その中の「壁画」を見学する。我々以外に人影は無く全くの静寂であった。
 
 漢代長城(かんだいちょうじょう)は西へ95Kmにあり、異民族の侵入を阻む防壁の最西端である。当時は敦煌から都・長安の先まで続いていたが、現在はここだけが史跡として保存されてる。
 砂漠の中を「舗装道路」が延々と続いていた。
 到着すると「新しい石標」が立っていた。
「長城壁」は植物の葭(あし)を沈泥(ちんでい)化させ何層も挟んで積み上げ、最も高いところで4mほどある。

 西端に「烽火台(ほうかだい)」が見えた。狼の糞を燃やし合図を送ることから「狼煙台(のろしだい)」とも言われる。
「狼煙の合図」は遠く長安までリレーされた。
 石標で「記念撮影」する。
 
 玉門関(ぎょくもんかん)は西へ90Kmにあり、シルクロードの西域・天山南路へ通ずる重要な関門であった。ここでシルクと玉石(中国の宝石)が交換されたので玉門関と名付けられた。
 車窓から「玉門関(高さ10m)」を眺める。
 入口には「レプリカ(複製)の門」が建っていた。その前で記念撮影する。

 真新しい「石標」が立っていた。
「裏側」にも門らしき穴が開いていた。
 内部を覗いたが「土の壁」があるだけであった。
 近くに「オアシス」があったから、当時は緑地が広がっていたのであろう。
 
 河倉城(かそうじょう)は西へ103Kmにあり、玉門関を守る屯田兵(農民兵)たちの食料倉庫である。この辺境の地に36000人もの屯田兵がいたそうだ。
 巨大な「倉庫跡」は城の様に広く大きい。
 新しい「石標」が置かれていた。
 後方から眺めても巨大な倉庫であったのが分かる。

 側の高台から眺めると「烽火台」らしきものが見えた。
 近くのオアシスに「羊の群」がいた。当時も貴重な食料となったのであろう。
 途中の道路沿いに干しぶどうの「乾燥庫」が建っていた。古代から乾燥気候を利用して食物の保存を続けていた。
 
 陽関(ようかん)は西へ70Kmにあり、玉門関と同様、古来より異民族との攻防の地であった。そして中央アジア乾燥地帯を走るオアシス路(天山南路)シルクロードの起点でもあった。
 陽関遺跡は「博物館入口」から少し離れた場所にある。
 館内にある唐代で活躍した「大維(おうい)像」の前で記念撮影する。
 博物館の裏手から馬車で3分位の所に「シルクロードの起点」がある。荷車は当時の物だそうだ。そして遙か彼方には雪を抱いた天山山脈が望まれた。

 観光に来ていた「回族(かいぞく)」のカップルに撮影させてもらう。民族衣装の白い帽子を被ったご主人は葡萄を栽培する富裕者なのだそうだ。そして奥さんは女優の様な「美人」であった。
 これより西域に砂漠を進むと約400Kmも先の楼蘭(ろうらん)までオアシスがない。道無き道の行く手には、それを阻むかの様に「灼熱の砂漠」が広がっていた。
 石標が示す「狼煙台」だけが唯一当時の面影を残している。
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