サンタクララ Slide show |
|
市内観光 トリニダ ⇒ サンタ・クララ ⇒ ハバナの途中風景。 |
|
|
 |
 |
 |
「トリニダのビーチ」でホテルの観光客が泳いでいた。 |
|
|
トリニダからインヘニオス渓谷へ向かう途中にあった「団地」。日本の住宅公団と似た造りでベランダに洗濯物が干してあった。 |
|
 |
 |
 |
インヘニオス渓谷からサンタ・クララに向かう道路を走る「トラクター」。 |
|
|
サンタ・クララの道路をドイツ製のオートバイ「MZ」が走っていた。 |
|
 |
 |
 |
サンタ・クララの道路を走る「オート三輪」。ビニールカバーの荷台には人が乗っていた。 |
|
昼食に立ち寄ったホテルのプールサイドを「可愛い女の子」が走っていた。 |
|
昼食したレストランで地元民が「けん玉」をしていた。腕前は全くの・・であった。 |
|
 |
 |
 |
「交通事故処理中」。キューバでは自動車の老朽化で交通事故による死亡者が増加している。 |
|
|
ハバナの「高層ビル」。この高さで老朽化したエレベーターは危険である。 |
|
 |
 |
 |
|
初日に泊まったハバナのホテル・ナルシオから見た「海岸の風景」。 |
|
|
ロス・インヘニオス渓谷 トリニダから北西14kmにあるインヘニオス渓谷は18世紀末から19世紀末まで 砂糖生産の中心地で最盛期には50以上の製糖工場とサトウキビ畑が広がっていた。スペイン人は原住民を奴隷として酷使し死滅させたのちにアフリカの黒人奴隷を3万人も使い更に暴利を得た。 |
|
|
 |
 |
 |
マナカ・イスナガの邸宅に向かう途中に「鉄道の駅」があった。まくら木が見えないほど古いレールにSLが走っている。 |
|
駅で「オジサン」が汽車を待っていた。あいにくSLは観られなかった。 |
|
|
 |
 |
 |
|
踏み切りを過ぎると直ぐに「マナカ・イスナガの邸宅」がある。 |
|
邸宅にある「砂糖きび搾り機」。奴隷がこの棒を押して汁を搾った。 |
|
 |
 |
 |
|
|
|
 |
 |
 |
|
塔の側に置かれた「イスナガの鐘」。当時は塔の中に設置されていた。 |
|
|
 |
 |
 |
|
最上階で「記念撮影」した。ここからインヘニオス渓谷内のサン・ルイス渓谷が一望できる。 |
|
道の左手に鉄道の「踏み切り」があり、右手に歩くとマナカ・イスナガの邸宅がある。 |
|
 |
 |
 |
|
|
|
装甲車列車襲撃記念碑 ゲバラはこの襲撃で勝利しキューバ革命を成功に導いた。その後カストロと仲違いしコンゴやボリビアでの革命を試みたが失敗しボリビアで処刑された。娘のアレイダ・ゲバラ・マーチ嬢は小児アレルギーの専門医として現在も活躍している。 |
|
|
 |
 |
 |
記念碑の近くにある「子供を抱いたゲバラ像」。彼は五人の子供の父親であった。 |
|
ゲバラ像と「ツーショット」。彼はぜん息持ちの医者だったが葉巻の愛煙家であった。 |
|
装甲列車の走っていた「線路」は現在も使われている。 |
|
 |
 |
 |
|
列車の周囲は「公園」のようになっていて襲撃の様子を記したモニュメントが立っていた。 |
|
記念碑の近くを「乗り合い馬車」が走っていた。この長閑(のどか)さは革命のお陰なのであろう。 |
|
チェ・ゲバラ霊廟(れいびょう)ゲバラは1928年アルゼンチンに生まれ、1959年にカストロと共に「キューバ革命」を成功させた。1960年(31歳)に彼の精悍な顔写真のポスターやTシャツが世界中で人気を博した。革命を追い求めたゲバラはカストロと別れ1967年ボリビアの山中でCIAの軍事訓練を受けた政府軍に射殺され39歳で没した。1997年にボリビア戦線で亡くなった同志の遺骨と共にこの霊廟に収められた。 |
|
|
 |
 |
 |
道路に向かって大きな「ゲバラの銅像」が立っていた。 |
|
銅像はTシャツのイメージより「老けて見える」。この下は博物館になっているが内部撮影は禁止であった。 |
|
神格化したゲバラ像と「ツーショット」する。恐れ多いかもしれないが…。 |
|
BACK NEXT |