メキシコシティ(2) Slide show
 メキシコシティの経済はサンパウを凌(しの)ぎラテンアメリカで最大だが、その発展に取り残されたような人々の喧騒感が溢れ、穏やかさが全く感じられない街であった。ここは2000mの高地にあり昼夜の寒暖差が大きく黒色の長袖を着た人と半袖シャツの人が混在し、ラテンアメリカらしからぬ雰囲気であった。15世紀にアステカ族がこの地の湖上に王国を築き定住したが、16世紀にスペイン軍が侵攻しアステカ神殿を全て破壊し湖を埋め立て植民地都市を築き現在のようになった。埋立地なので植民地時代に築いた建物は全て傾いたり沈下したりしている。市内観光 グァダルーペ寺院 テオティワカン遺跡 ディエゴ・リベラの壁画 メトロポリタン大聖堂 国立人類学博物館
 
 市内観光 サンパウロのような穏やかさはなく雑踏で忙(せわ)しない感じのする街であった。
「ホテルのレストラン」で朝食をたべる。「美人」と「マフラー」を巻いたおじさんたちが座っていた。昨夜は寒くて風邪をひきそうであった。

「ガリレア・プラザ ホテル」の入り口。「五つ星ホテル」だが暖房が効かない。
 
 ホテルの側にある「交差点」。屋台が開店の準備をしていた。日本のような自動販売機は見当たらない。
 
「半袖シャツ」の店員がジュース類を並べていた。

 暖かそうな「スープ?」を売っていた。
 
「コーヒー?」を売っていたが、ハンバーガーは見当たらなかった。
 
 朝早くからホテルの側のSCAと表示されたビルに「行列」ができていた。カメラを向けると警備員に追っ払われた。

 ビザの申請に集まった人々らしいが「深刻な表情」をしていた。
 
 その前の道路で「ゴミの収集」をしていた。ここの道路にゴミがないので気持ちがよい。
 
 グァダルーペ寺院に向かう途中の道路。激しい渋滞の中を「ゴミ収集車」が走っていた。

 寺院のそばにあった「土産店」。
 
 売れるとは思えない「宗教的なお土産」が並んでいた。
 
 テオティワカン遺跡に向かう「道路」も渋滞していた。

 遺跡に向かう高速道路沿いの丘にある「低所得者住宅の建物」。山の彼方まで果てしなく密集して建っていた。
 
 電気水道が不備で「衛生状態が悪い」そうである。昔は日本でも同様な光景が見られたから住めば都である。
 
 メキシコシティ中心部にある「アラメダ公園」の「ベニート・ファレス記念碑」。ベニート・ファレスはメキシコで唯一のインディオ出身の大統領である。
 アラメダ公園東側にある「国立芸術院」。1904年から30年かけて造られた白亜の殿堂で内部は壮麗な劇場になっている。
 
「ソカロ(憲法)広場」はメキシコシティの中心にあり世界三大広場の一つとも言われている。ここはアステカ王国時代の中心部で当時はテノチティトランの神殿がそびえていた。

 
 ソカロ広場から見える「ラテンアメリカンタワー」。1956年に建てられた182mの44階建ての高層ビルで、建られた当時は大きさ高さともにラテンアメリカ最大であった。国立宮殿やメトロポリタンカテドラルはこの広場に面して建っている。

 広場近くの歩道を歩いていた「看護師?さん」。メキシコの医療レベルは欧米並みの水準にあり、労働者は社会保険に強制加入させられるので医療費の心配は少ない。
 
 街角に立つ「スペイン風の楽団員」。日本でお馴染みのトリオロ・スパンチョス姿は一人も見なかった。左端に防弾チョッキを着た警備兵がいた。
 
「笑顔の美人女性」。メキシコでラテン風な友好的姿を見たのは後にも先にもここだけである。

 違法な露天を取り締まる「警官」。商人が慌てて店じまいしていた。
 
 メキシコシティ政府認可の「流しのタクシー」は車種と色がこのように定められている。無認可のタクシーに乗るのは危ないそうだ。
 
「輪タク」が走っていた。これなら絶対安心かも・・・。

 スマートな「メキシコのパトカー」。メキシコの警官は低賃金なので賄賂を要求するそうである。
 
「治安はよくない」と言われるが普通に見物するだけなら「危険な雰囲気はしない」。
 
 メキシコは「メタボな人」が多い。日本人も同傾向にあるが・・・。
 レフォルマ通りに立つ「コロンブスの像」。彼は1492年に新大陸を発見し原住民を手当たり次第に殺りくした。メキシコ人の80%はスペイン人と原住民の混血だから祖先のスペインを余り憎んでいないのであろう。

 同じ通りにあるアステカ最後の王「クアウテモック像」。1525年スペイン軍のコルステに処刑されアステカは滅亡した。王は拷問されたが最後まで黄金の在りかを吐かなかった。
 
 同じく「独立記念塔」。この塔は11年間スペインと戦って1821年に勝利したのを記念し1910年に建立された。塔の高さは36mある。祖先から独立したメキシコは移民が独立したアメリカと同じ境遇にある。
 同じ通りにある狩の女神の「ディアナ噴水」。メキシコ人の90%はカトリック信者だが市内に小さな教会は見当たらなかった。
 ホテルで食べた夕食の「ビーフステーキ」。見かけはワイルドだが味は十分よかった。昨夜同様暖房が効かず服を着込んで寝た。
 
 グァダルーペ寺院はソカロ広場から7Km離れた所にあり18世紀に建てられた大聖堂である。ラテンアメリカのカトリック教徒の聖地で毎年12月12日には大祭が行われ多くの信者が訪れる。この寺院はキリスト教に改宗したインディオの「ファン・ディエゴ」の前に聖母マリアが現れ、その姿が「グアダルーペ(褐色)の聖母」として布に写しだされた「奇跡」をもとに築かれた。16世紀スペイン人がメキシコの原住民たちをキリスト教に改宗するために「作り上げた神話」だとも言われている。
 西側の入り口に「グアダルーペの聖母」のレプリカが飾ってある。
 入り口の階段を上がると左手に奇跡の聖母マリアが現れたとされる「テペヤックの丘」が見える。ここはもともとインディオが信仰していた「ナンツィン(母なる神)」という女神がまつられていた聖地であった。

 その丘に建てられて「テペヤックの丘の礼拝堂」。この「ナンツィン」と「黒髪・褐色肌の聖母」が同一視されキリスト教がメキシコのインディオの間に急速に浸透していった。
 
 西側から見た「グアダルーペ寺院」旧聖堂。「テペヤックの丘」は左手上にあり、「パウロ二世の像」は右側に立っている。
 ローマ教皇「ヨハネ・パウロ二世の像」。パウロ二世は1979年にメキシコを訪問した。1754年にローマ法王庁により聖母が布に現われた奇跡が「公認」されファン・ディエゴは聖人に列せられた。

 南側から見た重厚感の溢れる「旧聖堂」の正面。18世紀に建てられた大聖堂だが地盤が弱いので傾いている。左端にパウロ二世の像が見える。
 
 正門の広場から見た「グアダルーペ寺院」の全容。この左横に新聖堂が建っている。

 寺院の「新聖堂」は1976年に建てられたがキリスト教らしからぬスタジアムのような造りである。
 
 新聖堂には「2万人」が収容でき日本武道館(15000人)より広い。ここにはバチカンに次ぐ聖地で年間1000〜2000万人の信者が訪れている。
 
「グアダルーペの聖母」の祭壇で厳かな「ミサ」が行われていた。メキシコ人の90%はカトリック信者である。
 祭壇の壁面に掲げられている本物の奇跡の聖母像「グアダルーペの聖母」。
 売店にある「レプリカの聖母」と並んで旅行安全の「記念撮影」をした。
 
 テオティワカン遺跡はメキシコシティから50km離れたところにあり、紀元前5世紀から紀元8世紀に存在した古代都市跡である。5世紀の全盛期には20万人が生活していたとされるが8世紀に突如廃きょになった。14世紀にアステカ人がここを発見し「テオティワカン(神々の集う場所)」と名づけ聖地として祭った。アステカ以前の文明には文字がなく当時の様子は謎に包まれている。生けにえで知られる「アステカの祭壇」はここではなくアステカ王宮にあった。
 入り口近くにある「ジャガーの神殿跡」。遠くに「月のピラミッド」の頂上が見える。

 神殿の多くは「修復」したものだが当時の雰囲気は十分伝わってくる。
 
 ジャガーの宮殿内にある「オリジナルの壁画」。ジャガーがほら貝を吹いて雨乞いをしている。
 
「月のピラミッド」は高さ46mあり、その正面広場で重要な儀式が行われた。ここでも生けにえの人骨が発見されている。

 ピラミッドは「四層」に別れ三層まで階段があるが観光客は一層目までしか上れない。
 
 一層目まで「急階段」を手すりにすがって上る。足の長い白人は笑いながら下りていた。
  
 月のピラミッドの一層目で「記念撮影」をした。左に見えるのが「太陽のピラミッド」で、真っ直ぐな道が「死者の道」である。死者の道とはアステカ人がここを王の墳墓と思い込んで付けた名前である。

 死者の道を進むと高さ64mの世界で三番目に高い「太陽のピラミッド」がある。ここは「雨の神を祭る神殿」で子供を生けにえにして雨乞いをした。
 
 このピラミッドは頂上まで「248段の階段」があり歩いて15分ほどで上れる。
 
 頂上には測量用の「真ちゅう製基準点鋲」がある。これは「ピラミッド調査団」が2000年に埋め込んだもので同じものが月のピラミッドにもある。これに触ると「幸運が訪れる」と言われている。
 太陽のピラミッドから見た「月のピラミッド」。生けにえで雨乞いするほどの水不足なら当時はテスココ湖がなかったのであろう。
「太陽のピラミッドを下る」と土産店が並んでいた。この先が出口になっている。
 
 国立宮殿とディエゴ・リベラの壁画 宮殿はアステカ王国の城をスペイン人の征服者エルナン・コルテスが破壊し1523年創建した。宮殿内にはメキシコ合衆国の大統領執務室と大蔵省があり、メキシコの壁画家ディエゴ・リベラ(1886-1957年)作の「メキシコの歴史」は中庭広場に面した二階回廊の壁に描かれている。この大フレスコ画はアステカ帝国が滅亡しスペイン植民地時代からメキシコ皇帝時代、メキシコ独立革命といったメキシコの歴史の流れを一画面に描き出している。回廊を一周すればメキシコの歩んだ苦難の歴史がうかがい知れる。
「国立宮殿」は「ソカロ広場」に面して建っている。スペイン人はアステカ王国の遺跡を破壊し、その石材を使ってメトロポリタンカテドラルや国立宮殿を造った。

「国立宮殿の正門」から中に入ると正面階段の壁に「メキシコの歴史」が描かれている。
 
 壁画の中央に「サボテンにとまった鷲が蛇を食べる」絵がある。アステカの神の予言で、ここが繁栄を約束された土地とされ13世紀末にアステカ王国の都「テノチティトラン」が建設された。
 
 鷲のすぐ上はメキシコ独立革命の主導者・神父「ミゲル・イダルゴ・イ・コスティーリャ」、右側で紙を広げ蝶ネクタイをしているのは先住民出身のベニート・フアレス大統領。鷲の下で槍と盾を持っているのが征服者エルナン・コルテス。

 神父は捕らえられ処刑されたが、その志は多くの人々に引き継がれ「メキシコ独立革命」は成し遂げられた。右の階段を上がると回廊がある。
 
 回廊の壁にその時代ごとの「フレスコ画」が並んでいる。防弾チョッキを着た「警備の警官」立っていた。
 
 この絵はアステカ王国の繁栄を表すもので、テスココ湖上にある都「テノチティトランの市場」の様子が描かれている。

 中央上にある「白い神殿」が都の中心であり、下では住民がひすい、羽根、カカオの実、貝殻などを「物々交換」している。
 
 援助交際費として「足を出した女性」に生けにえで「切り取った腕」を差し出している。そのそばで医者が「子どもを診察」している。
 
 この絵はトトナカ族の都「エル・ヒタン」の様子を描いている。顔を白く塗った左側のアステカ人に右側のトトナカ人が「貢物」をしている。トトナカ文明はメキシコ湾岸に栄えていた。

「トウモロコシ栽培」と「トルティージャ(トウモロコシ煎餅)」を作っている絵。
 
「カカオ栽培」の絵。宮殿内に大統領執務室があるのでガードマンは防弾チョッキを着ている。
 
「マゲイ(サボテンの一種)」で「テキーラ」を作っている絵。
 青い顔のエルナン・コルテスがスペインの役人から「賄賂」を受け取っている。「目の青い赤子」はアステカとスペインの混血児。コルテスはアステカ人とメスティーソ(混血)を奴隷にし顔に「焼印」をして大虐殺や略奪などでアステカ文明を完全に破壊した。
 下の赤い服を着た女性の後ろにディエゴ・リベラの妻で著名な画家「フリーダ・カーロ」が立っている。この階段を下ると出口になる。
  
 メトロポリタン大聖堂はソカロ広場の北側にあり南北アメリカにおいて最大最古の大聖堂である。この聖堂はスペイン人がアステカ神殿を破壊し、その基礎の上に神殿の石材使って建立した。完成には1573年から250年を要したが1894年の地震で倒壊しその後修復された。
 ソカロ広場に向かってそびえ立つ「大聖堂」。右隣には「サグラリオ礼拝堂」がある。

 見学には「右側扉」の入り口から入る。
 
 中央にある黄金の「しょく罪の祭壇」。
 
 祭壇の右側にある「黒いキリスト像」。毒を盛られた信者の身代わりなったので黒くなったとされている。

「??」。
 
「??」。
 
 子供を抱いた「マリア像」

 黄金の「マリア像」。
 
 黄金の「??像」。
 
 メキシコの最初の聖人「サン・フェリッペ・デ・ヘスス聖人」の像。彼は日本26聖人殉教者の1人として長崎で秀吉に処刑された。
 その隣にある「サン・フェリッペ・デ・ヘスス聖人」の立像(?)。彼はスペインへ帰国途中に船が難破し日本に漂着したため殉教した。
 一番奥にある「王の祭壇」。多くの黄金はスペイン人が持ち去ったであろうから、アステカには莫大な黄金があったと想像できる。
 
 国立人類学博物館はロペス・マテオス元大統領が1964年に建設したもので、メキシコ古代文明のマヤ、アステカ、オルメカ、テオティワカンの石像、壁画など多くの遺跡が展示されている。入り口は狭いが内部は東京ドーム一個分(13万u)もの広さがあり一日では回りきれない。
「博物館の入り口」の手前に「Museo Nacional de Antropologia(国立人類学博物館)」と刻まれた大きな看板と噴水がある。
 マヤ展示室の「入り口」。マヤ文明は紀元3〜9世紀に繁栄し12世紀以降に衰退した。各遺跡はそれぞれの部屋に分かれて展示してある。
 
「マヤの階級社会」を表したピラミッドで最高権力者の王を頂点に、貴族、聖職者、軍人、商人、一般農耕狩猟民からなっている。小像はハイナ島からの出土品。

 カンペチェ州で出土した「若い王」が両脇に神の形をした「先祖」を従えている像。

 パレンケ遺跡の「パカル王の墳墓」から出土したトウモロコシの神に扮した「パカル王」(左)と若い頃のパカル王(右)の頭部像。
 
 同じくパカル王の「ひすいのデスマスク」。
 
 王侯貴族が儀式やその生活で用いた鮮やかに「彩色された陶器」。これらは墳墓に副葬品として埋葬された。
 交易で持ち込まれた「金製の円盤」。当時のマヤには金製品はなかったとされている。
 
 チチェンイツァー遺跡にある戦士の神殿の上に横臥している「チャック・モール像」。腹部の凹みに生けにえの心臓を置いて捧げたとされている。「チャック・モール」とは生けにえの心臓を置く台のことである。

 アステカ展示室の「入り口」。アステカは14世紀から栄えた文明で16世紀にスペインに征服された。

 入ると直ぐにジャガーの形をした容器の「オセロクワウシカリ」がある。後方に有名な「太陽の石」が展示してある。
 
 オセロクワウシカリの背中は「臼(うす)」になっていて、この中に「生けにえの心臓」を入れた。
 
「太陽の石」は別名「アステカの暦石」と言われる。24トンの玄武岩で直径約3.6メートルあり1479年にアステカの王が作りスペイン占領時代の1790年にメキシコシティの中央広場から発掘された。
 となりに太陽の石の解説書きがあり、中央でナイフのよう舌を出している5番目の太陽が人の心臓を求めていると記されている。アステカ暦はマヤ暦を受け継いだもので2012年12月22日に「世界は滅亡」するとされている。

「アステカの祭壇」の模型。このような祭壇で毎日生けにえの儀式が行われた。余りに惨たらしいので宮殿の壁画には描かれていない。
 
 アステカの「チャック・モール像」。文化的な遺品は全てスペイン人に破壊され、おぞましい残酷な石像のみが多く展示されている。
 テスココ湖の小島に築いた都「テノチティトラン」の様子を表している。アステカの支配は広大に及び、ここだけでも人口は数十万人に達し中心部には神殿や宮殿が立ち世界最大級の都市であった。

「市場の様子」を描いたジオラマ。諸地域の産物がテノチティトランの中心部に集まり毎日市場が開かれた。商業活動は主に「物々交換」であったが「カカオ豆は貨幣」として流通した。
 
「カカオ豆」3粒で七面鳥の卵1個(600円)と交換できた。このレートでは「一粒200円」の価値があり奴隷一人の値段は豆500粒なので10万円になる。
「アステカの出土品」。全体的に不気味な雰囲気が漂っている。
「金の装飾品」と「金塊」。スペイン人はアステカの金塊が湖の底に隠してあると思い湖水を抜いて探索したとされる。
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