扶 余(プヨ) Slide show
 扶余は538〜660年の間、百済王朝の都であった。飛鳥時代には仏教などが日本に伝えられ、その歴史や文化が京都や奈良に受け継がれている。663年、白村江(はくそんこう)で日本・百済連合軍(5万人)は、唐・新羅連合軍(18万人)との海戦で破れ、国王は唐に連れ去られ百済は滅亡した。その時、白馬江(ペンマガン)の川岸に聳(そび)える落花岩(ナクファムアム)から2990人の宮女が身投げし、それを哀れむ扶余の人々に「三千の宮女、花のごとく落つ」と今も語り継がれている。白村江は現在の白馬江、正しくは錦江(きんこう クムガン)と呼ばれている川である。09.5.7
 遊覧船に乗っていた「小学生」。勉強のし過ぎか眼鏡をかけた生徒が多い。
 扶余の歴史を学びに「遠足」に来たのであろう。
 とうとうと流れる「白馬江」の川面(かわも)に「遊覧船」が走っていた。ここを下った河口で海戦が行われ日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に敗退した。

 中央の岩壁が「落花岩」で扶蘇山(プソサン)の北端にある。40mほどの高さがあり、その上から宮女が白馬江に身を投げた。

 絶壁の下に朝鮮時代の儒学者、尤庵・宋時烈(ソン・シヨル)が書いた「落花岩」という赤い文字が刻まれている。
 落花岩近くの「寺の境内」。土産店に遠足中の小学生が大勢集まっていた。
 この寺は本堂の裏に皐蘭と言う薬草が自生していることから「皐蘭寺(コランサ)」と呼ばれ、百済最後の王と白馬江へ身投げした2990人の宮女の霊を慰めるために建てられたと言われている。
 本堂の裏の裏側にある「皐蘭薬水」の水飲み場。皐蘭が生えている岩肌からわき出る清水に百済王が「甘露」として愛飲した。ここの看板に、この水を飲むと若返り、その昔飲み過ぎた老人が赤子になったと書かれていた。
 百済時代から「不老長寿の水」として今も庶民にも珍重されている。柄の長い柄杓(ひしゃく)で掬(すく)って飲むのだが衛生的とは言い難い。
  
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