ト ル フ ァ ン Slide show
 新疆ウイグル自治区にあり天山山脈南側のトルファン盆地中央に位置し、面積は1,6万Ku、人口は25万人でウイグル族が95%を占める。中国で最も低い地域(海抜以下)にあり、古くよりシルクロードの要所として栄えた。砂漠地帯で夏の最高気温は38〜40℃に達し「炎の州」とも言われる。産業は観光と農業でブドウ、綿花、ハミウリが特産品である。農業用水を得るため砂漠の地下にカレーズと言われる用水路を堀り、天山山脈の雪解け水を引き込んでいる。遺跡の多くは人を寄せ付けない程の灼熱地帯にあり、当時はもっと過ごし易い環境だったのではないだろうか。今は殆どが廃墟巡りに近い状態であった。市内観光 カレーズ 交河故城 蘇公塔 高昌故城 アスターナ古墳群 ベゼクリク千仏洞 火焔山 07.8.4
 
 市内観光 ウルムチから南東へ200キロにあり「炎の州トルファン」と呼ばれている。だが湿気がないので朝夕は涼しく、蒸し暑い熱帯夜の続く日本の夏より凌(しの)ぎやすい。
 ウルムチからトルファンまで「高速道路」を三時間ひた走る。
「灼熱のゴビ灘(たん)を新疆鉄道の「貨物列車」が走っていた。この砂漠を「砂の海」と言うのだそうだ。

 町に着くと「露店」が沢山並んでいた。
 イスラム様式の建物に「市場」が開かれていた。車の中からしか見られず残念!。

「長髪女性」の後ろ姿があった。振り向いてくれると良かったのだが。
 ホテルは「古風な造り」で立派であった。
 夕食後ホテルの中庭で艶やかな衣装を纏った、ウイグルの「民族音楽と民族舞踊」の舞台を鑑賞する。顔立ちが中国人と異なっていてエキゾチックであった。

 早朝の町を散歩する。イスラムの「モスク」が建っていた。
「三輪タクシー」が客待ちをしていた。
 パン屋さんが「ナン」を焼いていた。
 ウルムチ空港でも売っていたので土産に購入した。美味しかったので「お勧め品」である。

「三輪バイク」が何やらの肉を運んでいた。
 昔ながらの「馬車」も沢山走っていた。
 東欧風の「色白の美人」が馬車に乗っていた。

 おじさんが幸せそうに「子守」をしていた。
 上品なお母さんが「子守」をしていた。
 自宅の「中庭」も見せてくれた。お宅は大きく立派で、連日の「熱帯夜」でベットは外に置いてある。
「トルファン料理」を食べる。中華料理と異なり、油を使用しないヘルシーな作りで美味であった。
 
 カレーズは「地下の長城」とも呼ばれる用水路が総数で1500本掘られいる。平均の長さは3Km位、深さは30mである。しかしいつ頃から掘られ始めたのかは定かでない。この水を使って葡萄栽培が盛んに行われている。多くが干し葡萄として出荷されワインは余り作られていない様子であった。土産品のトルファンワインを飲んだが味音痴な素人舌には??であった。
 天山山脈の雪解け水はこの「ゴビ灘」の地下を走っている。
 雪解けの水脈を横から掘り当て、「地下用水路」で畑や町まで引き込んだのが「カレーズ」である。

 所々に地上への「換気口」があった。
 地元の人はこの「水」を直接飲んでいる。
 天然ミネラル水で育った「葡萄」はエメラルド様に熟れて輝いていた。
「葡萄棚」の下は涼しい。
 
 交河故城(こうがこじょう)トルファン西方10キロのアルナジル溝にあり二本の河に挟まれ木の葉に似た地形をしている。唐代(618)に栄えた城跡であるが草木が全く生えない猛暑の高台にあり、現在は人が生活できる様な環境ではない。
 現在も「河」に水が少し流れているので、当時はもっと水量が多かったのであろう。

「看板」が示す様に城の周囲は堀状になっている。
 遺跡は坂を登った「高台」にある。
 城跡はほとんど崩れ落ちていて「廃墟」に近い状態であった。
 一部「住居跡」らしき物が残っていた。
 繁栄していた頃の「広大な城」が偲ばれる。
 
 蘇公塔(そこうとう)は東へ4キロにあり、1779年地元の王が父のために建てたイスラム建築のモスクである。現在も礼拝が行われている。
 周囲は「高い塀」で囲まれ堅固な門がある。
「塔」の高さは44mある。
 モスクの前に当時の統治者「オーミン・ホージャの像」が立っている。

 塔には「美しい模様」が施されている。内部に階段があるが一般の人は登れない。
 塔の隣に「礼拝堂」がある。礼拝室はキリスト教と異なり質素である。
 礼拝日には「広場」が教徒で埋め尽くされるそうだ。
 
 高昌故城(こうしょうこじょう)は南東へ40キロにあり、紀元前一世紀西漢王朝時代に造られ、明代(1368)に修築された。城跡は1500年前のもので古きシルクロードの門戸として有名である。
 入口から「馬車」に乗って城の中心部に向かう。

 道の周囲は「土の壁」で囲まれていた。
 5分位で「城の中心部」に到着する。
 中心部も「土壁」が建っているだけであった。
 玄奘(げんじょう)三蔵が立ち寄って「説法した部屋」が残っていた。大勢が聞き入り城主も長逗留を願うたそうだから、余程徳のある高僧であったのが伺える。
 帰りは土煙をあげ「競争」しながら走った。
 
 アスターナ古墳群は高昌故城への途中にあり6〜7世紀に繁栄した高昌国時代の貴族の古墳群である。墓穴は全部で500位あると言われている。
 立派な「新築の門」が建っていた。
 広い墓地に石塔は無く「土饅頭と墓穴」だけがある。
「墓穴」の中は涼しくミイラ化した遺体と僅かな宝物が残っていた。
 
 ベゼクリク千仏洞は東へ40キロにある仏教遺跡である。6世紀の漢民族時代に開削した貴重な仏教石窟が残されていたが、この地方がイスラム化し盗賊、イスラム、外国の探検隊、文化大革命などのため残存するものは少ない。火焔山の麓に洞穴がありその中に壁画の一部が残っている。
 千仏洞は「天山山脈」を望む「渓谷」に位置している。
 石段を下ると「石窟の場所」に着く。
 洞穴は「火焔山の麓」にあり、その中に壁画の一部が残っていた。
 
 火焔山(かえんざん)は千仏洞の隣にある。西遊記は中国でも人気があるようで観光客が大勢いた。
「火焔山」は山脈状に連なっている。岩肌は日差しに依って真っ赤に染まり正午頃はそれ程赤く無かった。
 乗客のいない「ラクダ」が暇そうに座っていた。観光コースに含まれていないので乗れなくて残念…。
 富士山に似た美しい火焔山の麓に、「西遊記の石像」が立っていた。
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