カ イ ロ Slide show
 エジプトの首都カイロはナイル川河畔の交通の要衝として中世に建設され、中東の長い時代を通じてイスラム世界における学術、文化、経済の中心都市である。都市人口は1500万人でアフリカ大陸、中東地域における最大の都市である。ピラミッド 市内観光1 市内観光2
 
 ピラミッド 古代エジプトのピラミッドは一般的に奴隷の築いた王墓とされてきたが、内部から王のミイラは未だに発見されず、現在では農閑期における公共事業説がほぼ定説となっている。クフ王のピラミッドは高さ146m、カフラー王は144m、メンカフラー王は108mである。スフィンクスはファラオ(王)の顔とライオンの体を持ち、王または神を守護するシンボルとされている。エジプト観光最大のハイライトはクフ王のピラミッド内部見学である。薄暗い通路を屈んで歩けば棺のある広間に着く。広間に入り両手をかざせば棺や石の壁から4500年前のピラミッドパワーが伝わってくる。往復10分位の距離で暑苦しくて疲れるが迷路状ではないから不安は無い。当然ながらカメラの持ち込みは禁止である。06.3.27
 ピラミッドはギザの丘陵に建っていて、カイロの「ホテルプールサイド」から良く見える。
「周辺道路」は整備され観光バスに乗れば直ぐに到着できる。
「ギザの丘陵」からはカイロの街並みが一望できる。ラクダに腰掛けた警官がこっちを睨(にら)んでいた。

 ピラミッドの周囲は、ラクダに乗った警備の「警官」が絶えずパトロールしている。
 最も有名なピラミッドはご当地ギザの「三大ピラミッド」で手前のがクフ王のピラミッドである。
 
 その中でも「クフ王のピラミッド」が一番大きく、次ぎにカフラー王、メンカウラー王となる。バスと比べるとその大きさが分かる。

 クフ王のピラミッドを内部見学する。穴の「入口」は地面から少し上がった所にあり、棺まで単純なトンネルで繋(つな)がっている。冒険小説にあるような盗掘を防ぐ迷路などは無かった。
 入口の「行列」に列んで中に入る。穴の高さは低いので腰をかがめ頭を下げて歩く。手で頭を押さえて歩いたが何度もぶつけた。薄暗い照明の階段や坂を下がったり上がったりすると棺のある広間に着く。

 近くにいた「地元の人」らしき女性と子供を撮らせてもらった。エジプト人は女性はにこやかだが、大人も子供も「男は愛想が悪い」。
 ピラミッドには「ラクダ」が良く似合う、立ち上がる時は取っ手をしっかり持っていないと落っこちそうになる。有料の場合は男性も愛想が良い。

 一番大きい「クフ王のピラミッド」をバックに記念撮影する。
 そばにある博物館に「太陽の船」が展示してあった、王が三途の川を渡るための船らしい。
 
 スフインクスまでバスで移動する。この広場には欧米人観光客が大勢いた。「スフインクス」の後ろには「カフラー王のピラミッド」が見える。

 地元の「小学生」も大勢見学に来ていた。
 スフィンクスの左側に「出入口」がある。通路が狭いので、押し合いへし合いして中に入る。
 
 中に入ると「スフィンクスの全体」が間近に見られる。顔の傷みが酷く、修復中で足場が掛けてあった。
 ギザを離れ、サッカラにある「階段ピラミッド」を見学する。これはエジプトで最初に造られたピラミッドである。
 ダハシュールで「屈折ピラミッド」を見学する。これはクフ王の父が造ったピラミッドだが、未完成の感がある。何れもマイナーなので観光客はまばらであった。

 古代王朝の遺跡、メンフィスで「ラムセス二世の巨大像」を見学する。
 側に小振りの「アラバスタースのフインクス」があり、その周囲にはローカルな土産店が並んでいた。
 小振りのスフインクスの前で記念撮影する。
 
 市内観光(1) 紀元前69〜29年のエジプトはローマの庇護下にあった。紀元前48年シーザー(カエサル)はクレオパトラと恋仲になり彼女をエジプトの王位につけた。そして女王クレオパトラはシーザーの妾となって彼の子供(カエサリオン)を生んだ。だが、紀元前44年3月15日共和派の人々によってシーザーは暗殺され、後継者に親戚のオクタビアヌスが選ばれた。しかし、アントニウスが軍隊を使ってローマを占領すると強引に執政官の座につき、紀元前36年にアフリカの属州とイタリアの支配権を手に入れた。紀元前41年クレオパトラは自分の地位を保つためアントニウスと恋愛関係になり、彼女の才知と美貌に夢中になったアントニウスは紀元前32年にローマの東方領を全てクレオパトラに与えようとした。怒ったオクタビアヌスは翌年の「アクチウムの海戦」で激戦の末アントニウス、クレオパトラ連合艦隊を破りローマの単独支配者となった。ローマ艦隊に敗れたはアントニウス自らの剣で自殺し、クレオパトラはエジプトに逃げ帰り毒蛇に自分の胸を噛ませて自殺したと伝えられている。06.3.27
 成田を離陸して14時間、カイロ上空より「街の明かり」を眺めながら空港に到着した。
 翌朝ホテルの窓を空けると、ナイルの河畔に近代的なビルが立ち並ぶ「カイロの朝」が目に入る。
 ツアーバスに乗って、ギザ、メンフィス、サッカラのピラミッド見学に出発する。途中に登校中の体格の良い「学生」がいた。

 市街を少し離れると果物の露店や「アエーシの売店」があった。アエーシとはエジプト人の主食でインドのナンに似ている。

 経済貢献コースの「敷物教室」へ見学に立ち寄る。
 可愛い「女の子」がはた織りを練習していた。
 即売場は価格交渉の「商談」で賑わっていた。商売となると男の店員もにこやかで愛想が良い。エジプトには女性の店員はいないようだ。

 郊外では南国風の並木通りを、荷車を引いた「ロバ」がノンビリ走っていた。
 レンガ造りの「分譲マンション」の広告があった。地震の心配が無い国ならではの造りである。
「壊れたパソコン」を積んだ馬車も走っていた。何ともアンバランスな光景である。

 都心へ近づくと道路が込み始め、「日本車」も沢山走っていた。
 町角で「高齢の女性」が、イスラムの黒いスカーフを被っていた。
「若い女性」がセンスの良いスカーフ姿で立ち話をしていた。
 街中にテロ警備の警官が数人立っていた。背負った「カラシニコフ銃」が不気味に光っている。
「親子」なのか楽しそうに喋りながら歩いていた、街にテロの緊張感はなかった。
 
 市内観光(2) カイロ博物館の目玉はツタンカーメンの秘宝である。ツタンカーメンは古代エジプト新王国第18王朝のファラオであり9才で即位し18才(紀元前1361年-1352年)でその生涯を終えた。歴史上無名でありながら盗掘されずに発見され、そのミイラと財宝によって有名になった。ツタンカーメン黄金のマスクはルクソールのナイル西岸「王家の谷」で発見され、黄金の棺は1tを超える。そしてミイラだけは今も王家の谷に静かに眠っている。06.3.29
 ホテルの窓からナイル川を眺めると、ディナークルーズの「遊覧船」が停泊していた。
 朝から「カイロ考古博物館」を見学する。持ち物検査が厳しく館内撮影は禁止である。世紀の発見「ツタンカーメンの秘宝」を見学する。パンフレット同様、金色に輝く品々を目の前にすれば、凡人でもエジプト考古学史上最高の遺産であることを実感する。
 ミイラ等は「気味が悪い」し、その他の展示物は、ツタンカーメンの陰に隠れて余り記憶に残っていない。考古学に感心のある人は別だろうが、もしラムセス2世などファラオの墓が盗掘されていなければ、エジプトの歴史も大きく変わっていたのではないかと思う。

 イスラム教のモハメド・アリ・モスクの見学に向かう。街は人と車で「混雑」していた。

「モハメド・アリ・モスク」は高台にあり塀で囲まれている。
「中庭から見たモスク」は美しく立派である。
 モスクの中では男性だけで「礼拝」が行われていた。

「可愛い少女」が来ていた。
 珍しくにこやかな「少年」もいた。
 女性も大勢いたが、女性は普段自宅で礼拝するそうだから、今日は「集団礼拝日」なのであろう。
 「美人の女性」が大勢いて、写真撮影にも気軽に応じてくれた。エジプト女性は元来明るいのであろう。

 ここは高台にあるので見晴らしが良い。別の「大きなモスク」が間近に建っていた。
「街の様子」を上から眺める。モスクと一体化したビルがあった。

 通りは「人と車」でゴッタ返していた。
 町角に「若者」がたむろしていたが、ホームレスはいない。
「洗濯物」が干してあった。
「ハンハリーリ・バザール」を散策、大きな市場で地元の人も大勢いた。

「赤ちゃん」を抱いている人もいる。
 カラフルな「下着と寝間着」を並べた店の前に、女性が大勢集まっていた。家の中では自由な姿でいるようだ。

 ファッショナブルな「学生さん」らしき女性が歩いていた。
 バザールでは日本以上に「カラフルな商品」が沢山売られていた。洗濯後の色落は如何な物であろうか。
 ご当地は男同士で仲良く語らっている姿が多い。女性は外出し難いからであろうが、色気のない「不自然な光景」である。
 赤ちゃんを抱いた家族を撮ったが、お母さんは笑顔だが旦那は「怖い顔」に見える。強面なご当地男性はドウモ苦手である。

 ナイル河の夜景を眺めての「ディナークルーズ」に出発する。
 船上から眺める「ナイル川の夜景」。
 船上から眺める「カイロの街の夜景」。
「タンヌーラ・ダンス」を踊っていた。これはスーフィーダンスとも呼ばれ、イスラム神秘主義派の旋回舞踊である。回ることで神との交流を図っている。

 船内の舞台で「ベリーダンス」が披露された。これは、エジプト、トルコなどの民族舞踊で、ジプシーが伝承したと言われている。ベリーとはお腹という意味で、メタボリック対策に効果的である。
 歌と踊りで日本ではとても味わえない、ファンタスティックでゴージャスな「エジプトの夜」を満喫した。
 お別れの朝、きめ細かく案内してくれた日本人現地ガイドさんと見習いガイドさんの「ツーショット」。男性は流ちょうな日本語でを自己紹介していた。彼女はエジプトへの永住を希望していた。頼もしく素晴らしいと思うのだが、もし自分の娘だったら反対するだろう。
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