チ ベ ッ ト
 成田10.6.19 (3.5H) ⇒ 北京6.19 (2.5H) 西寧 青蔵鉄道6.20 ラサ16.21 ラサ26.22 ラサ36.23 ⇒ 成都 ⇒ (2H) ⇒ 北京6.24 (3.5H) ⇒ 成田6.25 
 (**H)は空路  赤字は観光地  青地は出発宿泊帰着日
 現在チベットという国は存在せず、正式な名称は中華人民共和国のチベット自治区で面積は日本の3倍、人口は240万人位である。中国に占領される前のチベットの広さは日本の6倍もあったとされ、現在も青海省100万人、四川省120万人、雲南省12万人、甘粛省40万人、合計で500万人のチベット人が暮らしている。チベットの略歴史は、7世紀ソンツェン・ガムポが吐蕃(とばん)王朝を樹立。1277 モンゴルに支配される。1642 モンゴルがチベットの統治者へ「ダライ・ラマ(観音菩薩の化身)」の称号を与える。1911 チベットの独立宣言をイギリスと中国が拒否。1913 イギリスがチベットとインドの国境ライン(マクマホン・ライン)を強制的にインド領にする。 1949 毛沢東の人民解放軍がチベットに侵攻。 1951 中国政府がチベットを自治区に編入する。 1959 ダライラマ14世はインドに亡命し北インドに亡命政府を作る。1966 文化大革命でチベットの文化遺産が破壊され中国に持ち去られる。 1989 チベット第2の高僧パンチェン・ラマが死亡。 1989 ラサで起きたチベットの独立デモを非暴力で行ったとしてダライ・ラマ14世にノーベル平和賞が授与される。 1995 パンチェン・ラマ12世の認定で中国と対立。2000 第3位の高僧カルマパ17世がインドの亡命政府へ亡命する。2008.3.10 チベット自治区ラサ市においてチベット独立を求める暴動が発生する。古今東西、領土問題が話し合いで解決した例は殆どなく国連などは全く頼りにならない。国際的には取り合えずノーベル平和賞を与え穏便な幕く引きを謀る勝てば官軍的な思惑が感じられる。1949年に毛沢東がチベット開放を宣言したのが悲劇の始まりであり、1959年にダライラマ14世がインドに亡命し北インドのダラムサラにチベット亡命政府を樹立した。現在も15万人余のチベット難民がインドやネパールの居留地で暮らしている。西寧(さいねい)から2006年に開通した青蔵鉄道でポタラ宮殿のあるラサに入った。2008年3月に起きた武力騒動の影響か、乗客の殆どは中国人で欧米人は全く乗車していなかった。ラサ市中に入ると銃を持った人民解放軍兵士が迷彩服を着てパトロールしていた。文化大革命で紅衛兵に破壊された多数の仏像や寺院などは今でも修復中であった。辛うじて破壊を免れたオリジナルの仏像や寺院の数は敦(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)を上回り、薄暗い灯明の中で金色に輝く仏像群のお姿は壮観である。現地ガイドさんの話ではチベットには金銀銅の鉱物資源が豊富なのだそうだ。チベット崩壊の一因は南米ペルーと同じ金銀財宝にまつわる略奪の悲劇なのかも知れない。祈るだけでは国を守れない現実を目の当たりにした気分である。チベット仏教の聖地ラサは極端に観光地化し、五体投地の祈りで悟りを開く神聖な場所には程遠い俗世界であった。NHKが報じるチベットやシルクロードの番組は、中国プロパガンダの片棒を担いでいて日本人を平和ボケさせる何物でもないと感じる。だが、水資源しかない日本を侵略しても何のメリットもないから当面は安心だが領土拡大を図る中華思想の攻勢は脅威である。渡航日10.6.19~6.25 7日間
タール寺の僧侶
(西寧)
タングラ山脈
(タングラ駅車窓)
菜の花畑
(ラサ駅車窓)
チベットの子供
(ラサ市外)
チベットの若者
(ラサ市外)
ポタラ宮殿
(ラサ市内)
五体投地
(大昭寺門前)
バルコル通り
(大昭寺周辺)
ヤムドク湖とノジンカンサン峰
(カンパ峠)
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西寧 青蔵鉄道 ラサ1